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草原の町ハイラルの思い出 ――公宅静江さんのインタビューから

草原の町ハイラルの思い出

――公宅静江さんのインタビューから

本稿は、2000年代に行った公宅静江さんへの聞き取り記録をもとに、 公開向けに再構成したものです。 女学校を出たばかりの17歳の静江さんは、 親族の誘いを受けて満州・ハイラルへ向かいます。 姫路、下関、釜山、ハルビンを経てたどり着いた草原の町。 そこには、日本人、モンゴル人、ブリヤート・モンゴル人、白系ロシア人が行き交う、 多民族の生活空間がありました。

草原の町へ向かった十七歳

公宅静江さんは、京都府綾部に生まれました。 女学校を出た17歳のころ、ハイラルにいた親族から 「一度来てみないか」と誘われます。

当時は「満州」へ向かう人が多かった時代でした。 静江さん自身も、「赤い夕日の満州へ一度行ってみたい」と思っていたそうです。

旅は姫路から始まりました。 下関まで汽車で行き、そこから船で釜山へ。 さらに朝鮮半島を通り、ハルビンへ向かいます。 ハルビンで一泊し、満州里行きの列車に乗り換え、ハイラルへ向かいました。 ハイラルまでは、およそ一週間の旅だったといいます。

冬のハイラルに着いたのは、夜明け前の暗い時間でした。 駅は真っ暗で、寒さが身にしみました。 迎えに来た親族と馬車に乗り、 まだ街の様子もよく分からないまま、家へ向かったそうです。

寺田家での暮らし

静江さんが寺田家で暮らすことになったのは、 親族が奉天へ講習に行くことになったためでした。 身を寄せる場所が必要になった静江さんに、寺田利光さんが声をかけます。

「うちの英子の話友達でいいから、うちにこんか」

こうして静江さんは、寺田家でお世話になることになりました。

静江さんの記憶の中で、寺田英子さんは「大黒柱」のような存在でした。 お父さんとロシア語で話し、ロシア人の友人とも交流していたといいます。 ハイラルには白系ロシア人も多く、バザーではパンや魚が売られ、 洋服を作る人もいました。

寺田公館には、いつも人が集まっていました。 転勤する人、日本から来た客人、軍関係者、地域の人々。 料理の上手なロシア人の手伝いさんがいて、 寺田家では客人をよくもてなしていたそうです。

寺田利光さんとモンゴル人社会

静江さんは寺田利光さんについて、次のように語っています。

「何事もモンゴル人の立場になってするように」

寺田さんは、モンゴル人から信頼されていた人物だったと静江さんは回想します。 軍の仕事を進めるうえでも、地域の人びととの信頼関係は欠かせませんでした。 寺田さんはウルジン司令官とロシア語で話し、 二人で軍のことを進めていたといいます。

また、寺田さんは周囲の家族にも気を配る人でした。 軍関係者の家族にもよく声をかけ、家に招くことが多かったそうです。

英子さんが帰れなくなった日

寺田家では、夏休みに東京から家族がハイラルへ来ていました。 夏休みが終われば、英子さんも一緒に帰る予定だったそうです。

しかし、その時期に寺田利光さんが脳出血で倒れ、右半身不随になりました。 英子さんは帰ることができなくなり、ハイラルに残ることになります。

この出来事は、英子さんの手紙とも深く関わる重要な場面です。 手紙の中に残された看病、家族、帰郷できない時間は、 静江さんの証言によって、より立体的に見えてきます。

手仕事とともに生きた静江さん

静江さんは、和裁の達人でもありました。 若いころから針仕事に親しみ、年を重ねてもその手はよく動いていました。 90歳になってもバッグを作り、公民館のバザーに出品するなど、 手仕事を楽しみながら暮らしておられました。

写真の静江さんの前には、ご自身で作られたバッグや小物が並んでいます。 ハイラルの記憶を語る静江さんは、同時に、日々の暮らしの中で ものを作り、人とつながり続けた方でもありました。

公宅静江さん。90歳になっても和裁やバッグ作りを楽しみ、公民館のバザーにも出品していました。

戦後につながったハイラルの記憶

戦後、ハイラルにいた人びとが集まる会が開かれるようになりました。 全国から関係者が集まり、はじめのころは多くの人びとが参加したそうです。 夜通し語り合い、翌日は一緒に見物へ出かけたといいます。

会は長く続きましたが、参加者が高齢になり、 亡くなる方や体が不自由になる方が増え、やがて解散しました。

けれども、そこで語られた記憶は消えませんでした。 ハイラルで出会った人々、別れた人々、 戦後に再びつながった人々の記憶は、静江さんの言葉の中に残されています。

小さな証言が照らす大きな歴史

公宅静江さんのインタビューは、一人の女性の思い出であると同時に、 1930年代ハイラルの多民族社会を知るための貴重な証言です。

そこには、日本人、モンゴル人、ブリヤート・モンゴル人、 白系ロシア人が行き交う生活の場がありました。 寺田家の応接間、ロシア人の手伝いさん、 白系ロシア人のバザー、ウルジン司令官との交流、 そして戦後につながったハイラルの記憶。

写真だけでは見えない声があります。
手紙だけでは届かない表情があります。
インタビューは、そのあいだを静かにつないでくれます。

静江さんの記憶は、草原の町ハイラルをもう一度、 私たちの前に立ち上がらせてくれるのです。


資料注記:
本稿は、バトエワ アリウナが行った公宅静江さんへの聞き取り記録 「草原の町ハイラルの思い出」をもとに、公開向けに再構成したものです。 原記録には個人名・詳しい日付・場所が含まれるため、 本記事では一部の周辺人物名、詳細な日時、具体的な訪問場所を省略・一般化しています。

※本稿は公開向けの概要版です。 インタビュー全文および関連資料は、今後、資料集・研究発表等で整理して公開する予定です。

© バトエワ アリウナ / NUTAG.
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